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2019年7月25日 (木)

本願寺 安居

毎年、7月18日から二週間の安居(お釈迦さまの頃、雨季の無用な殺生を避けるため、僧侶が一箇所に停留して仏道修養に励む期間がルーツ)が、2014年から六度目の懸席(参加すること)となりました。

例年、送り出してくれる家族や門徒さんに感謝しつつ、全国から同じように集まってきた僧侶たちと研鑽に励みます。

安居のスケジュールは基本的に、午前7時頃から読経、それから三箇の和上(能化ノウケのこと、教える人。教わる人は、所化ショケ)による講義があり、それから大衆(全国から集った参加者)による会読(問答を通して、浄土真宗の法義を削り出していく方法)があります。

ところで毎年の恒例、源信和尚、源空聖人、親鸞聖人がご修行になられた地である比叡山(848㍍)へ徒歩で参拝しています。

初年は、六角堂と山を結ぶ雲母坂キララザカの赤山禅院から分け入り、根本中堂から西塔を経て黒谷へ。

翌年は、東山トレイルの道から頂上、次いで黒谷から横川ヨカワへのルートを覚え、

今年は、黒谷から横川、2度目は横高山、仰木峠を経て大原へ。

蜘蛛、蛇や蜂、山蛭など、ちょっぴり危険な生き物もいるけれど、比較的のんびり山歩きを楽しみました。

いくつかの写真でご案内。

 

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八瀬の先、黒谷 青龍寺(法然聖人修学の地)への登山口。

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グーグルマップには載っていない山道、結構ハードです。

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青龍寺。天台宗ですが、浄土宗が管轄。

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黒谷からまだ登る行者道への階段

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パーキングエリアには伝教大師の像と、「草木国土悉皆成仏(人も草木も存在するものすべてが仏性を持ち、みな仏になる可能性を持っている)」の涅槃強からの引文が石碑に刻まれていました。法華一乗。
今年の副講「唯識論尋思鈔」に説かれた「三祇即一念、五姓即一乗」の義、解脱坊貞慶が歩まれた-こよなき道-。そして「信心仏性」の論題を思います。

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この歩道は叡山のなかで、二河白道と呼ばれているところ。

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玉体杉。千日回峰の行者は、ここで帝都へ向かい読経し、国家の安泰を祈った。

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これが、その景色。写真では見えにくいけど、ここから市内が一望できます。

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滋賀おごとから横川へ至る元三大師道。

正月3日に命終したので、元三大師。おみくじの創始。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E6%BA%90

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横川へ到着。

このあと、雷も降って来たので横高山(767㍍)・水井山(794㍍)・仰木峠を経て大原へと続く険しい山道。

 

声明ショウミョウ(慈覚大師円仁が唐から輸入した仏教音楽)を伝える魚山三千院の写真は、撮りそびれました。

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2019年7月16日 (火)

葛飾の親鸞聖人②

築地本願寺新報4月号に掲載された記事の続編です。

 

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以下、画像の表示が難しい環境へ向け、テキストのみを記載します。

 

葛飾の親鸞聖人②

 浄土真宗の立教開宗は、『教行信証』にある「わが元仁元(1224)年」という記述に基づいています。時に、親鸞聖人52歳の年でした。下総国葛飾郡と称された範囲に点在する御旧跡は、ちょうどその頃の動向を伝えています。4月号の前編では西念坊を伴い関東へ入られ西光院を設けてから、常陸国笠間郡稲田郷(現 茨城県笠間市)を中心に行脚された足跡を追いました。鎌倉幕府の重臣であった葛西清重が隠棲する渋江村(現 葛飾区四つ木)を訪れた聖人は、長雨に降られてその居所へしばらく逗留しました。この時聖人の教えに帰依した出来事がきっかけとなり、後に宗旨が変わった二つの西光寺でも近年に至るまで報恩講が勤められていたのです。今回はそこから先の足取りを、もう少し追ってみることにします。

 

金町の光増寺

 親鸞聖人が二つの西光寺と縁を結ばれてから足繁く辺りを往来された様子を、葛飾区金町にある光増寺は伝えています。ある時聖人が善性坊、順信坊、蓮位坊の三弟とともに渋江村などを巡り歩かれていた折、ふと五月雨に見舞われました。降りしきる雨音とともに響く念仏読経の声につられ、一行は柴で屋根が葺かれた庵へ入ります。庵主の法海に迎えられた聖人は一晩の雨宿りをなされ、そこで他力信心の深意を懇切丁寧に説かれたといいます。教えを聞いた法海は、喜びの余りその場で師弟の約束を結び随信坊の名を授かりました。それからもたびたび同地を訪れた聖人は、縁に触れた人々へ念仏の教えを勧められました。幾年の歳月を経ていよいよ旅立たれる時には送別の法座が開かれました。 その一席で、「私をお護りくださる阿弥陀さまの光は、いつまでもどこまでも増していくばかりだ(意)」と喜ばれたといいます。ここから光増寺の名を授かり、法海は西念坊と西光坊(葛西清重)、石垣(福岡県久留米市)の金光坊と共に関東での教化を託され、二幅の尊像が授けられたと伝えられています。
『遊歴雑記』は、後の光増寺の盛況を次のように伝えています。「門外の建石に-親鸞聖人御旧跡-とある通り、3日間の報恩講を勤めれば老若男女が出かけて来て、1泊して行く人もいます。のどかな風景が広がり、花は目を、鳥は耳を楽しませ、日頃の憂さは野原に晴らされ心身は楽になり、人々は声をかけ合いつつ道を行きます。寺に泊まるのが苦手なら、新宿(葛飾区)に宿泊所がたくさんあります。誰だって、家に閉じこもって修羅の炎を燃やし、地獄の種まきをするよりは、散策を兼ねて仏事の場へ体を赴ける行楽こそ、何よりもすぐれた遊びでしょう」。

 

鎌田村の明福寺

 さて、聖人が常陸国からどのような経路を辿られて都を目指されたのかは判然としませんが、その選択肢には水路という手段もあったでしょう。旧江戸川から東京湾へ抜ける途中の鎌田村(現 江戸川区江戸川)にもまた、雨にまつわる聖人の伝説が残されています。初夏の頃、53歳の聖人は長らく陽の下へさらされた体の疲れを癒そうと、池の畔へ腰を下ろされました。すると老翁が茂みからふと現れて、木陰で休まれる聖人のもとへと歩み寄ります。老翁は日照り続きによる近隣農家の不作を嘆き、雨を待ち望んでいると聖人に打ち明けます。聖人が聞き及ぶと間もなく立ち込めた雨雲は天を覆い、大粒の雨をたっぷりと降らせて田畑の窮地を救いました。その晩、くたびれた聖人がまどろんでいると夢枕に昼間の老翁がたち現れ、瞬く間に毘沙門天へと姿を変え、「この地へ留まって地域の人々を救って欲しい」と頼みました。聖人は夢のお告げに応じて布教活動に勤しまれ2、3年の歳月を鎌田村で過ごされたといいます。教化による住民たちの喜びは、後世に亘り報恩講が勤められる事に明らかです。江戸時代の『遊歴雑記』には、その様子が次のように述べられています。
「江戸の内外から僧俗関係なく老若男女が集まり、年配の方はおもむろに前へ進み出て-帰命無量寿如来-と導師を務め、おのおの正信偈と念仏和讃を勤め終えたら退散していきます。1日中この繰り返しです。明福寺では3日間、報恩講が勤められますが東小松川村の善通寺でも同じく報恩講が勤められ、中将姫の蓮糸曼荼羅が御開帳されています。川の対岸には、商店街などもあって飲食や宿泊には困りません」。
また東国に点在する聖人の御旧跡で、さまざまな事情によって後に改宗したにもかかわらず、他宗の開祖である聖人を讃嘆する報恩講(本文には御取越と表記されている)を勤め続ける寺院などが多数あるという事も、次のとおり一覧で紹介されています。
渋江村西光寺 天台宗 3月8日~10日
帚木塚村西光寺 真言宗 3月8日~10日
半田村光増寺 浄土宗 4月5日~7日
鎌田村 妙福寺 浄土宗 4月8日~10日
木賣村西光院 真言宗  4月14日~16日
下總國野田の町太子堂 禅宗 4月14日~16日
常陸國片銀村渡邊安右衛門 禅宗 4月26日~28日
相模國足柄箱根権現 真言 6月21日~28日

 

東小松川村の善通寺

 さて、前頁の引用文に出てきた「東小松川村の善通寺」は、先に触れた清浄寺とともに浄土真宗本願寺派に属する寺院ですが、その開基は親鸞聖人の時代から暫く後になります。葛西清重と共に鎌倉幕府の重臣であった千葉常胤の末裔で、曾谷(現 市川市曽谷)の城主千田宗胤の子・宗信が1455~7(康正年間)に東小松川村へ建立し、荒川の開削によって現在の地へ移転されました。
宗胤は35歳の蓮如上人が関東へ来た時に教えを受けたであろうと、時系列から推測されます。本願寺の歴代宗主は、親鸞聖人にならって、坂東修行と称し東国を巡ります。蓮如上人は生涯に3度これへ赴かれ、1度目が宝徳元(1449)年であったと『蓮如上人遺徳記』が伝えています。それから6、7年の後に、宗胤は子の宗信を京都の本願寺へ遣い、8世の宗主を継がれたばかりの蓮如上人から剃髪を受けて法名を授かり、帰郷の後に一寺を建立したのではないかと考えられます。
『新編武蔵風土記稿』には、善通寺の宝物として2つの軸が挙げられています。1つは、千葉常胤が親鸞聖人から授かった直筆の名号本尊で、末裔の宗胤が夢に見たと伝承されていますが、こちらは戦火によって消失されてしまいました。
もう一点は阿弥陀如来の立像で、天平(奈良時代中期)の伝説まで遡ります。聖武天皇の御代、13歳にして中将の官職を得た藤原豊成の姫がありました。いわゆるこの中将姫は、俗世間を離れたいと奈良の當麻寺に入り善心と法名を名のります。読経念仏に明け暮れていたある日、尼僧が現れて蓮の糸で曼荼羅をしつらえるように勧めます。これが天皇の耳に入ると、直ちに蓮の糸が調達されました。すると今度は女官が現れて制作を助けます。織り上がると女官はその場から消え去り、尼僧は善心へ観無量寿経の講説を始めました。ひとしきり説き終えると尼僧は紫の雲と共に去り、善心は余った蓮の糸でもう一幅の阿弥陀如来像を織りました。この伝承を聞きつけた千葉常胤が後に當麻寺へ尊像を求め、千葉氏一族の守り本尊としました。この本尊が末代まで相続され、現在も善通寺に収められているのです。
 尊像には目から胸の辺りまで血痕が残されています。かつて寺庭より堂内へと鳥が飛び込んだ際、尊像の目へ突き当たってしまった事によると伝えられています。それからは本尊を大事に護るために普段は戸を閉めて安置し、法要に合わせて開帳される様になった事が『遊歴雑記』には記されています。なお現在は経年による劣化も著しく、一般への公開は行われていません。

文 小柴 隆幸

 

協力

浄土宗 光増寺(葛飾区)

浄土宗 明福寺(江戸川区)

浄土真宗本願寺派 善通寺(江戸川区)

葛飾区 郷土と天文の博物館

 

参考文献

『平成17年度特別展「親鸞と青砥藤綱」-東京下町の歴史伝説を探る-』,2005,葛飾区郷土と天文の博物館 編、『江戸川区史』,1976,江戸川区 発行、『新編武蔵風土記稿』,1884,内務省地理局 編、『十方庵遊歴雑記』1916,釈敬順 著, 江戸叢書刊行会 編、『浄土真宗聖典全書(五)相伝篇 下』2014, 浄土真宗本願寺派総合研究所 編

 

参照文
1,『蓮如上人反故裏書』顕誓
常陸國下妻の三月寺小嶋に三年ばかり、同く稲田の郷に十年ばかり御座をなされぬ。是は筑波山の北のほとり、板敷山のふもとなり。其後相模國あしさげの郡高津の真楽寺、又鎌倉にも居し給と也。 乃至 六十歳の御時この所(国府津真楽寺)より箱根山をこされ御上洛ありとなん。七年御居住ありと申伝へ侍る。 乃至 蓮如上人東國御行化の時もこの所に御逗留在しき。
2,『拾塵記』實悟
本願寺の御住持は、鸞上人の御修行の例として、必御一代に一度関東・奥州下向せしめ給事也。然而蓮如上人は、御一代に三ヶ度有下向御所存たりし。一番には奥州下郡まで御下向也。
3,『蓮如上人御一期記』實悟
開山親鸞聖人は四十餘歳の夏の比、坂東所々御径徊の例とて、本願寺の御住持は、代々東国御修行なり。先師蓮如上人は最初は三十餘歳
4,『蓮如上人御自言 榮玄聞書』
蓮如上人は関東に五年御在國と候。そのゆへは御開山の御下向ありて御心労なされ候その御跡を、御冥加のために御覧ぜらるべきとの御事とて、御下國なされ候。
5,『蓮如上人遺徳記』
宝徳元(1449)年先師卅五歳 初て北地に下向し玉ひて 乃至 暫く下鄙の堺ここかしこに休息し玉ひて華洛に還り玉ひけり。

葛飾の親鸞聖人①

築地本願寺新報へ寄稿した記事が4月号に掲載されました。

 

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以下、画像の表示が難しい環境へ向け、テキストのみを記載します。

 

葛飾の親鸞聖人①

 建暦元(1211)年40歳にさしかかった親鸞聖人は、家族と共に新潟から関東へと向かわれました。群馬県邑楽郡での出来事が内室である恵信尼さまの手によって記されている事から、42歳の頃に関東へ辿り着かれた事がわかります。それから20年余りを関東の地で過ごされるのですが、その間どちらへ住まわれ、いつどのような日々を送られたのか、詳しくはわかりません。曽孫の覚如上人は関東で直接教えを受けた弟子達から往時の様子を聴き取り、茨城県笠間市を中心に活動された事を伝記に遺されました。また親鸞聖人が浄土真宗のみ教えを示された『教行信証』には「わが元仁元(1224)年」という記述があります。下総国葛飾郡一帯に点在する御旧跡には、ちょうどその頃の出来事が伝承されています。『教行信証』御制作の頃の親鸞聖人を、これらの伝承に訪ねてみます。

 

葛飾という地名

 「かつしか」と聞くと、映画や漫画を連想する方も多いでしょう。しかしこれらの舞台となった東京都葛飾区は古来葛飾と呼ばれた地域のごく一部にしか過ぎません。区史によれば、葛飾の「葛」は下総台地の丘陵や崖などを指し、「飾」は利根川流域に分布する砂州などの低地を示しています。つまりもともとの葛飾は、東京都・千葉県・茨城県・埼玉県にまたがる広大な地域の名称でした。災害や飢饉に度々見舞われた記録が残されていますが、豊富な水量と肥沃な大地、穏やかな気候は人々に大いなる恵をもたらした事でしょう。

 朝廷の国司によって開発さた下総国は、平安時代に伊勢神宮の所領となり、葛西御厨(神の台所の意味で、神前へ献上する供物を調達する場所)と呼ばれました。葛西とは、葛飾郡南部の西側という意味です。

 

源平の盛衰と葛西清重

 葛西御厨の領主であった葛西清重について、『吾妻鏡』は源頼朝の忠臣であった事をつぶさに記しています。頼朝は平氏討伐の初戦に敗れ、舟で安房国へ渡ります。再挙すべく東国の武士に呼びかけ、葛西氏にもその旨の書状を出しました。いよいよ増す軍勢と共に下総国市川まで進軍しますが、隅田川右岸地域に勢力を張っていた江戸重長が従わないため、頼朝は容易に武蔵国へ入ることができません。そこで、清重に江戸氏を討つよう命じます。しかし江戸氏は葛西氏と同じ平氏の親族であったことから、清重は何とか説得に努めて和平に成功したのです。『沙石集』は、この時の清重の振る舞いを紹介し「芳心ある人」と讃えています。

 後の元暦元(1184)年には、平氏追討のため源氏の軍勢とともに九州へ渡り、翌年壇の浦(山口県下関市)で平氏を滅ぼしました。

 

二郷半木売の西光院

 この源平合戦は後に奥州合戦へと波及するのですが、その戦乱に親を失った信濃(現 長野県)の井上貞親は、無常に触れて如来の慈悲を仰ぎ越後(現 新潟県)へ配流に処されていた親鸞聖人を訪ねました。聖人の教えに帰して西念と法名を授かると、関東への旅路にも伴ったといいます。武蔵国足立郡野田(現 さいたま市緑区)へ到着した西念は、まず西念寺という坊舎を建てました。そして少し離れた下総国葛飾郡二郷半木売(現 埼玉県吉川市)にも道場を設け西光院(現 清浄寺)と称しました。この地は水運の要所であり、西念は聖人と共に往来する大勢の人々へ教えを説きひろめました。それより後三代の西順は、西念が直に聖人から拝領した聖人像が、いずれ災禍によって消失される事を危ぶみ、門前の土の中へ埋めて隠しました。やがて四代の頃になると、聖人像が自ら土中よりむくむくと現れ出たといいます。この聖人像は「おむくさま」と称され現在も後続の清浄寺に伝えられています。

 

渋江村と宝木塚村の西光寺

 聖人は関東へ入られてから数年の後、常陸国笠間郡稲田郷(現 茨城県笠間市)に草庵を結ばれました。

 45歳のある日、ご自坊と幕府のある鎌倉とのおよそ中間に位置する、下総国葛飾郡渋江村(現 葛飾区四つ木)を訪れました。渋江村には、葛西清重の屋敷がありました。頼朝亡き後、御家人の権力闘争によって三代将軍実朝が謀殺され、源氏の嫡流が絶えた折には出家し定蓮と名乗っています。降りしきる雨の中、隠棲し還暦を迎えた清重の館を訪れた聖人は53日の逗留をされました。その間、清重は仏教に関わる問いや日ごろの生活における様々な悩みを直に聖人へ尋ねながら、時には涙を堪え、教えを聞いては喜び、念仏を称えつつ過ごした事でしょう。清重は聖人から西光坊の法号を授かり、直筆の本尊を受けました。また清重邸からおよそ1キロの距離にある、現在の葛飾区宝町の僧侶も事を聞き及び、参上して聖人の教化に帰依し直筆の本尊を貰い受けました。そして聖人は後に僧侶の居所を訪れ、一本の松の木をご覧になりながら「松の字は十八公と解けば阿弥陀如来の十八願に通じる」と、袈裟を掛けたといいます。村人たちはこの松を宝の木と称して尊びました。これが当地宝木塚村の由来となり、現在は葛飾区宝町という名にそのいわれを残しています。

 『教行信証』に見える「わが元仁元年」は、この一件から7年の後にあたり、同年翌年と二つの西光寺は相次いで創立されています。健脚に関東一円を廻られた聖人は、たびたびこの地を訪れ有縁の方々と談笑を交えつつ、一方では『教行信証』の制作に勤しまれていた事でしょう。

 二箇寺を含む一帯は水郷地帯で、以降何度も水害に見舞われました。また国府台合戦をはじめとした戦火によって荒廃し、無住の期間もありました。しかし各寺とも後に住職を迎え、渋江村 西光寺は浅草寺伝法院末の天台宗に、また宝木塚村 西光寺は青戸 宝持院末の真言宗豊山派へと宗旨が改まって相続されています。

 

他宗での報恩講

 特筆すべきなのは、他宗の寺院となってからも近年に至るまで親鸞聖人の報恩講法要が両堂においてそれぞれ営まれてきた事です。

 江戸時代の『遊歴雑記』はその賑わいぶりを次のように伝えています。

「渋江村 西光寺の三日間の報恩講には、どこからともなく人が集ってきます。首からぶら下げた鉦を打ち声明に勤しむ者、ひたすら念仏を称える者、坂東曲(聖人御作和讃の情熱的な節回し)を唱える者もいます。通りでは小銭を乞い、それを賽銭として供える人もいます。本堂は61人の老若男女が寿司詰めで、正面に掛けられた真筆の本尊へ参っています」

「宝町西光寺は、本堂の内陣左側に聖人真筆の本尊を掛けてあります。年月を重ねた故の劣化と、仕舞う時の損傷で本尊はだいぶくたびれています。けれども村中の人々が集まり、隣村や渋江村からも人が代わる代わるにやって来ては参拝しています」

文 小柴 隆幸

 

協力

浄土真宗本願寺派 清浄寺(吉川市)

天台宗 西光寺(葛飾区)

真言宗豊山派 西光寺(葛飾区)

葛飾区 郷土と天文の博物館

 

参考文献

『葛飾区史』,2017,葛飾区総務部総務課 編、『平成17年度特別展「親鸞と青砥藤綱」-東京下町の歴史伝説を探る-,2005,葛飾区郷土と天文の博物館 編、『新編武蔵風土記稿』,1884,内務省地理局 編、『十方庵遊歴雑記』1916,釈敬順 著, 江戸叢書刊行会 編、『沙石集』,1618,無住 著

 

後編は6月号に掲載の予定です。

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