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2019年7月16日 (火)

葛飾の親鸞聖人②

築地本願寺新報4月号に掲載された記事の続編です。

 

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以下、画像の表示が難しい環境へ向け、テキストのみを記載します。

 

葛飾の親鸞聖人②

 浄土真宗の立教開宗は、『教行信証』にある「わが元仁元(1224)年」という記述に基づいています。時に、親鸞聖人52歳の年でした。下総国葛飾郡と称された範囲に点在する御旧跡は、ちょうどその頃の動向を伝えています。4月号の前編では西念坊を伴い関東へ入られ西光院を設けてから、常陸国笠間郡稲田郷(現 茨城県笠間市)を中心に行脚された足跡を追いました。鎌倉幕府の重臣であった葛西清重が隠棲する渋江村(現 葛飾区四つ木)を訪れた聖人は、長雨に降られてその居所へしばらく逗留しました。この時聖人の教えに帰依した出来事がきっかけとなり、後に宗旨が変わった二つの西光寺でも近年に至るまで報恩講が勤められていたのです。今回はそこから先の足取りを、もう少し追ってみることにします。

 

金町の光増寺

 親鸞聖人が二つの西光寺と縁を結ばれてから足繁く辺りを往来された様子を、葛飾区金町にある光増寺は伝えています。ある時聖人が善性坊、順信坊、蓮位坊の三弟とともに渋江村などを巡り歩かれていた折、ふと五月雨に見舞われました。降りしきる雨音とともに響く念仏読経の声につられ、一行は柴で屋根が葺かれた庵へ入ります。庵主の法海に迎えられた聖人は一晩の雨宿りをなされ、そこで他力信心の深意を懇切丁寧に説かれたといいます。教えを聞いた法海は、喜びの余りその場で師弟の約束を結び随信坊の名を授かりました。それからもたびたび同地を訪れた聖人は、縁に触れた人々へ念仏の教えを勧められました。幾年の歳月を経ていよいよ旅立たれる時には送別の法座が開かれました。 その一席で、「私をお護りくださる阿弥陀さまの光は、いつまでもどこまでも増していくばかりだ(意)」と喜ばれたといいます。ここから光増寺の名を授かり、法海は西念坊と西光坊(葛西清重)、石垣(福岡県久留米市)の金光坊と共に関東での教化を託され、二幅の尊像が授けられたと伝えられています。
『遊歴雑記』は、後の光増寺の盛況を次のように伝えています。「門外の建石に-親鸞聖人御旧跡-とある通り、3日間の報恩講を勤めれば老若男女が出かけて来て、1泊して行く人もいます。のどかな風景が広がり、花は目を、鳥は耳を楽しませ、日頃の憂さは野原に晴らされ心身は楽になり、人々は声をかけ合いつつ道を行きます。寺に泊まるのが苦手なら、新宿(葛飾区)に宿泊所がたくさんあります。誰だって、家に閉じこもって修羅の炎を燃やし、地獄の種まきをするよりは、散策を兼ねて仏事の場へ体を赴ける行楽こそ、何よりもすぐれた遊びでしょう」。

 

鎌田村の明福寺

 さて、聖人が常陸国からどのような経路を辿られて都を目指されたのかは判然としませんが、その選択肢には水路という手段もあったでしょう。旧江戸川から東京湾へ抜ける途中の鎌田村(現 江戸川区江戸川)にもまた、雨にまつわる聖人の伝説が残されています。初夏の頃、53歳の聖人は長らく陽の下へさらされた体の疲れを癒そうと、池の畔へ腰を下ろされました。すると老翁が茂みからふと現れて、木陰で休まれる聖人のもとへと歩み寄ります。老翁は日照り続きによる近隣農家の不作を嘆き、雨を待ち望んでいると聖人に打ち明けます。聖人が聞き及ぶと間もなく立ち込めた雨雲は天を覆い、大粒の雨をたっぷりと降らせて田畑の窮地を救いました。その晩、くたびれた聖人がまどろんでいると夢枕に昼間の老翁がたち現れ、瞬く間に毘沙門天へと姿を変え、「この地へ留まって地域の人々を救って欲しい」と頼みました。聖人は夢のお告げに応じて布教活動に勤しまれ2、3年の歳月を鎌田村で過ごされたといいます。教化による住民たちの喜びは、後世に亘り報恩講が勤められる事に明らかです。江戸時代の『遊歴雑記』には、その様子が次のように述べられています。
「江戸の内外から僧俗関係なく老若男女が集まり、年配の方はおもむろに前へ進み出て-帰命無量寿如来-と導師を務め、おのおの正信偈と念仏和讃を勤め終えたら退散していきます。1日中この繰り返しです。明福寺では3日間、報恩講が勤められますが東小松川村の善通寺でも同じく報恩講が勤められ、中将姫の蓮糸曼荼羅が御開帳されています。川の対岸には、商店街などもあって飲食や宿泊には困りません」。
また東国に点在する聖人の御旧跡で、さまざまな事情によって後に改宗したにもかかわらず、他宗の開祖である聖人を讃嘆する報恩講(本文には御取越と表記されている)を勤め続ける寺院などが多数あるという事も、次のとおり一覧で紹介されています。
渋江村西光寺 天台宗 3月8日~10日
帚木塚村西光寺 真言宗 3月8日~10日
半田村光増寺 浄土宗 4月5日~7日
鎌田村 妙福寺 浄土宗 4月8日~10日
木賣村西光院 真言宗  4月14日~16日
下總國野田の町太子堂 禅宗 4月14日~16日
常陸國片銀村渡邊安右衛門 禅宗 4月26日~28日
相模國足柄箱根権現 真言 6月21日~28日

 

東小松川村の善通寺

 さて、前頁の引用文に出てきた「東小松川村の善通寺」は、先に触れた清浄寺とともに浄土真宗本願寺派に属する寺院ですが、その開基は親鸞聖人の時代から暫く後になります。葛西清重と共に鎌倉幕府の重臣であった千葉常胤の末裔で、曾谷(現 市川市曽谷)の城主千田宗胤の子・宗信が1455~7(康正年間)に東小松川村へ建立し、荒川の開削によって現在の地へ移転されました。
宗胤は35歳の蓮如上人が関東へ来た時に教えを受けたであろうと、時系列から推測されます。本願寺の歴代宗主は、親鸞聖人にならって、坂東修行と称し東国を巡ります。蓮如上人は生涯に3度これへ赴かれ、1度目が宝徳元(1449)年であったと『蓮如上人遺徳記』が伝えています。それから6、7年の後に、宗胤は子の宗信を京都の本願寺へ遣い、8世の宗主を継がれたばかりの蓮如上人から剃髪を受けて法名を授かり、帰郷の後に一寺を建立したのではないかと考えられます。
『新編武蔵風土記稿』には、善通寺の宝物として2つの軸が挙げられています。1つは、千葉常胤が親鸞聖人から授かった直筆の名号本尊で、末裔の宗胤が夢に見たと伝承されていますが、こちらは戦火によって消失されてしまいました。
もう一点は阿弥陀如来の立像で、天平(奈良時代中期)の伝説まで遡ります。聖武天皇の御代、13歳にして中将の官職を得た藤原豊成の姫がありました。いわゆるこの中将姫は、俗世間を離れたいと奈良の當麻寺に入り善心と法名を名のります。読経念仏に明け暮れていたある日、尼僧が現れて蓮の糸で曼荼羅をしつらえるように勧めます。これが天皇の耳に入ると、直ちに蓮の糸が調達されました。すると今度は女官が現れて制作を助けます。織り上がると女官はその場から消え去り、尼僧は善心へ観無量寿経の講説を始めました。ひとしきり説き終えると尼僧は紫の雲と共に去り、善心は余った蓮の糸でもう一幅の阿弥陀如来像を織りました。この伝承を聞きつけた千葉常胤が後に當麻寺へ尊像を求め、千葉氏一族の守り本尊としました。この本尊が末代まで相続され、現在も善通寺に収められているのです。
 尊像には目から胸の辺りまで血痕が残されています。かつて寺庭より堂内へと鳥が飛び込んだ際、尊像の目へ突き当たってしまった事によると伝えられています。それからは本尊を大事に護るために普段は戸を閉めて安置し、法要に合わせて開帳される様になった事が『遊歴雑記』には記されています。なお現在は経年による劣化も著しく、一般への公開は行われていません。

文 小柴 隆幸

 

協力

浄土宗 光増寺(葛飾区)

浄土宗 明福寺(江戸川区)

浄土真宗本願寺派 善通寺(江戸川区)

葛飾区 郷土と天文の博物館

 

参考文献

『平成17年度特別展「親鸞と青砥藤綱」-東京下町の歴史伝説を探る-』,2005,葛飾区郷土と天文の博物館 編、『江戸川区史』,1976,江戸川区 発行、『新編武蔵風土記稿』,1884,内務省地理局 編、『十方庵遊歴雑記』1916,釈敬順 著, 江戸叢書刊行会 編、『浄土真宗聖典全書(五)相伝篇 下』2014, 浄土真宗本願寺派総合研究所 編

 

参照文
1,『蓮如上人反故裏書』顕誓
常陸國下妻の三月寺小嶋に三年ばかり、同く稲田の郷に十年ばかり御座をなされぬ。是は筑波山の北のほとり、板敷山のふもとなり。其後相模國あしさげの郡高津の真楽寺、又鎌倉にも居し給と也。 乃至 六十歳の御時この所(国府津真楽寺)より箱根山をこされ御上洛ありとなん。七年御居住ありと申伝へ侍る。 乃至 蓮如上人東國御行化の時もこの所に御逗留在しき。
2,『拾塵記』實悟
本願寺の御住持は、鸞上人の御修行の例として、必御一代に一度関東・奥州下向せしめ給事也。然而蓮如上人は、御一代に三ヶ度有下向御所存たりし。一番には奥州下郡まで御下向也。
3,『蓮如上人御一期記』實悟
開山親鸞聖人は四十餘歳の夏の比、坂東所々御径徊の例とて、本願寺の御住持は、代々東国御修行なり。先師蓮如上人は最初は三十餘歳
4,『蓮如上人御自言 榮玄聞書』
蓮如上人は関東に五年御在國と候。そのゆへは御開山の御下向ありて御心労なされ候その御跡を、御冥加のために御覧ぜらるべきとの御事とて、御下國なされ候。
5,『蓮如上人遺徳記』
宝徳元(1449)年先師卅五歳 初て北地に下向し玉ひて 乃至 暫く下鄙の堺ここかしこに休息し玉ひて華洛に還り玉ひけり。

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