« 7月の法話会 | トップページ | 葛飾の親鸞聖人② »

2019年7月16日 (火)

葛飾の親鸞聖人①

築地本願寺新報へ寄稿した記事が4月号に掲載されました。

 

A01 A02 A03

 

以下、画像の表示が難しい環境へ向け、テキストのみを記載します。

 

葛飾の親鸞聖人①

 建暦元(1211)年40歳にさしかかった親鸞聖人は、家族と共に新潟から関東へと向かわれました。群馬県邑楽郡での出来事が内室である恵信尼さまの手によって記されている事から、42歳の頃に関東へ辿り着かれた事がわかります。それから20年余りを関東の地で過ごされるのですが、その間どちらへ住まわれ、いつどのような日々を送られたのか、詳しくはわかりません。曽孫の覚如上人は関東で直接教えを受けた弟子達から往時の様子を聴き取り、茨城県笠間市を中心に活動された事を伝記に遺されました。また親鸞聖人が浄土真宗のみ教えを示された『教行信証』には「わが元仁元(1224)年」という記述があります。下総国葛飾郡一帯に点在する御旧跡には、ちょうどその頃の出来事が伝承されています。『教行信証』御制作の頃の親鸞聖人を、これらの伝承に訪ねてみます。

 

葛飾という地名

 「かつしか」と聞くと、映画や漫画を連想する方も多いでしょう。しかしこれらの舞台となった東京都葛飾区は古来葛飾と呼ばれた地域のごく一部にしか過ぎません。区史によれば、葛飾の「葛」は下総台地の丘陵や崖などを指し、「飾」は利根川流域に分布する砂州などの低地を示しています。つまりもともとの葛飾は、東京都・千葉県・茨城県・埼玉県にまたがる広大な地域の名称でした。災害や飢饉に度々見舞われた記録が残されていますが、豊富な水量と肥沃な大地、穏やかな気候は人々に大いなる恵をもたらした事でしょう。

 朝廷の国司によって開発さた下総国は、平安時代に伊勢神宮の所領となり、葛西御厨(神の台所の意味で、神前へ献上する供物を調達する場所)と呼ばれました。葛西とは、葛飾郡南部の西側という意味です。

 

源平の盛衰と葛西清重

 葛西御厨の領主であった葛西清重について、『吾妻鏡』は源頼朝の忠臣であった事をつぶさに記しています。頼朝は平氏討伐の初戦に敗れ、舟で安房国へ渡ります。再挙すべく東国の武士に呼びかけ、葛西氏にもその旨の書状を出しました。いよいよ増す軍勢と共に下総国市川まで進軍しますが、隅田川右岸地域に勢力を張っていた江戸重長が従わないため、頼朝は容易に武蔵国へ入ることができません。そこで、清重に江戸氏を討つよう命じます。しかし江戸氏は葛西氏と同じ平氏の親族であったことから、清重は何とか説得に努めて和平に成功したのです。『沙石集』は、この時の清重の振る舞いを紹介し「芳心ある人」と讃えています。

 後の元暦元(1184)年には、平氏追討のため源氏の軍勢とともに九州へ渡り、翌年壇の浦(山口県下関市)で平氏を滅ぼしました。

 

二郷半木売の西光院

 この源平合戦は後に奥州合戦へと波及するのですが、その戦乱に親を失った信濃(現 長野県)の井上貞親は、無常に触れて如来の慈悲を仰ぎ越後(現 新潟県)へ配流に処されていた親鸞聖人を訪ねました。聖人の教えに帰して西念と法名を授かると、関東への旅路にも伴ったといいます。武蔵国足立郡野田(現 さいたま市緑区)へ到着した西念は、まず西念寺という坊舎を建てました。そして少し離れた下総国葛飾郡二郷半木売(現 埼玉県吉川市)にも道場を設け西光院(現 清浄寺)と称しました。この地は水運の要所であり、西念は聖人と共に往来する大勢の人々へ教えを説きひろめました。それより後三代の西順は、西念が直に聖人から拝領した聖人像が、いずれ災禍によって消失される事を危ぶみ、門前の土の中へ埋めて隠しました。やがて四代の頃になると、聖人像が自ら土中よりむくむくと現れ出たといいます。この聖人像は「おむくさま」と称され現在も後続の清浄寺に伝えられています。

 

渋江村と宝木塚村の西光寺

 聖人は関東へ入られてから数年の後、常陸国笠間郡稲田郷(現 茨城県笠間市)に草庵を結ばれました。

 45歳のある日、ご自坊と幕府のある鎌倉とのおよそ中間に位置する、下総国葛飾郡渋江村(現 葛飾区四つ木)を訪れました。渋江村には、葛西清重の屋敷がありました。頼朝亡き後、御家人の権力闘争によって三代将軍実朝が謀殺され、源氏の嫡流が絶えた折には出家し定蓮と名乗っています。降りしきる雨の中、隠棲し還暦を迎えた清重の館を訪れた聖人は53日の逗留をされました。その間、清重は仏教に関わる問いや日ごろの生活における様々な悩みを直に聖人へ尋ねながら、時には涙を堪え、教えを聞いては喜び、念仏を称えつつ過ごした事でしょう。清重は聖人から西光坊の法号を授かり、直筆の本尊を受けました。また清重邸からおよそ1キロの距離にある、現在の葛飾区宝町の僧侶も事を聞き及び、参上して聖人の教化に帰依し直筆の本尊を貰い受けました。そして聖人は後に僧侶の居所を訪れ、一本の松の木をご覧になりながら「松の字は十八公と解けば阿弥陀如来の十八願に通じる」と、袈裟を掛けたといいます。村人たちはこの松を宝の木と称して尊びました。これが当地宝木塚村の由来となり、現在は葛飾区宝町という名にそのいわれを残しています。

 『教行信証』に見える「わが元仁元年」は、この一件から7年の後にあたり、同年翌年と二つの西光寺は相次いで創立されています。健脚に関東一円を廻られた聖人は、たびたびこの地を訪れ有縁の方々と談笑を交えつつ、一方では『教行信証』の制作に勤しまれていた事でしょう。

 二箇寺を含む一帯は水郷地帯で、以降何度も水害に見舞われました。また国府台合戦をはじめとした戦火によって荒廃し、無住の期間もありました。しかし各寺とも後に住職を迎え、渋江村 西光寺は浅草寺伝法院末の天台宗に、また宝木塚村 西光寺は青戸 宝持院末の真言宗豊山派へと宗旨が改まって相続されています。

 

他宗での報恩講

 特筆すべきなのは、他宗の寺院となってからも近年に至るまで親鸞聖人の報恩講法要が両堂においてそれぞれ営まれてきた事です。

 江戸時代の『遊歴雑記』はその賑わいぶりを次のように伝えています。

「渋江村 西光寺の三日間の報恩講には、どこからともなく人が集ってきます。首からぶら下げた鉦を打ち声明に勤しむ者、ひたすら念仏を称える者、坂東曲(聖人御作和讃の情熱的な節回し)を唱える者もいます。通りでは小銭を乞い、それを賽銭として供える人もいます。本堂は61人の老若男女が寿司詰めで、正面に掛けられた真筆の本尊へ参っています」

「宝町西光寺は、本堂の内陣左側に聖人真筆の本尊を掛けてあります。年月を重ねた故の劣化と、仕舞う時の損傷で本尊はだいぶくたびれています。けれども村中の人々が集まり、隣村や渋江村からも人が代わる代わるにやって来ては参拝しています」

文 小柴 隆幸

 

協力

浄土真宗本願寺派 清浄寺(吉川市)

天台宗 西光寺(葛飾区)

真言宗豊山派 西光寺(葛飾区)

葛飾区 郷土と天文の博物館

 

参考文献

『葛飾区史』,2017,葛飾区総務部総務課 編、『平成17年度特別展「親鸞と青砥藤綱」-東京下町の歴史伝説を探る-,2005,葛飾区郷土と天文の博物館 編、『新編武蔵風土記稿』,1884,内務省地理局 編、『十方庵遊歴雑記』1916,釈敬順 著, 江戸叢書刊行会 編、『沙石集』,1618,無住 著

 

後編は6月号に掲載の予定です。

« 7月の法話会 | トップページ | 葛飾の親鸞聖人② »