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2020年4月25日 (土)

またまたおしらせ

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中志津のユタカ(仮名)も、かなしそうに見えた。

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卯月中旬に門徒さんから「写経を奉納したいのですが」と電話がありました。

てっきり薬師寺で高田好胤さんが勧進なさった般若心経かと思ったら、浄土の妙典です。

読誦ながら校合して印をついたら納めます。意味は分からないと仰っていたけれど、まずもって字がきれい。

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そしてもうひとつ嬉しいのは妻が、帰敬式で用するオカミソリをしまう鞘をこさえてくれたこと。

刺子によるペウベルとパドマの意匠。

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そんなわけで、ウィルスの禍難に在っても、ささやかな幸せを味わっている。

ところで世の中の幸せは、見る影を潜めているようです。おおきなおおきな不安に圧し迫られて。

昭和43年、チータは「しあわせは 歩いてこない/休まないで 歩け♪」と歌った。

くじけずに歩きつづけたら、いつか「しあわせ」を手に入れられるのだろうか。

 

おしえてお釈迦さま

 

お経のなかで「幸」の字は「ねがい」という意味を示したりする。しかしそう読まない現在ではイメージしづらいので、「~して下さいましたら、これ幸い存じます」あてはめてみる。

シーンは、弟子が師匠にうやうやしく申し上げるところ。

たとえばジェダイナイトが、マスターに「フォースを欲望や憎しみの糧にはしません。そしてシスからの誘惑を退け、恐怖に屈しないジェダイとなります。これを条件として私をマスターに認めて下さいましたら、これ幸いに存じます」とねがうように。

お経の場合は、法蔵という菩薩が、世自在王という師仏に対して、「すべての人々を苦しみから解放し、かならずしあわせにすると誓います。これを私が仏になる条件と認めて下さったなら、これ幸いに存じます 」と申し出る。

この前提となった物語があるので、そのことをお話ししないとよくわかりません。それはつぎのとおり。

むかしむかし世自在王という仏さまがいました。ある国の王さまがその仏さまから教えを聞くと、とても嬉しくなってしまいました。そしてついに国も王位も捨てて菩薩(仏道をあゆむもの)となり、法蔵と名のりました。

そして先ほどのシーンがおとずれ、「幸」の字を用いて法蔵菩薩の”ねがい”が示されるのです。

次いで法蔵菩薩は師匠の指南を仰ぎ、21,000,000,000バリエーションの仏さまの国の成り立ちや国民の素性をみせてもらって、ひととおり検査し、自分は誰もが成仏することのできる浄土を作ろうとジックリよく考えたのだ。頭がバクハツするほどに。

いよいよ48の願いをたてて(ユニバーサルデザインの浄土を建設するための設計図のような)、ひとつひとつの完遂に自らの成仏をかけて誓いました。

しまいには、かさねがさねコンパクトな「南无阿彌陀佛」の名になって、十方(東南西北とそのあいだを合わせた2D、それから下のレイヤーから上のレイヤーまでぜんぶ合わせた3D)へ声に響かせて聞かせましょう、この”ねがい”を!」という修行を選ぶことにして、宣誓されたといいます。

 

これが「南无阿彌陀佛」という仏さまになった法蔵菩薩の「幸」のおおまかな内容。すると、くじけず休まず歩きつづけて、いつか手に入れようとしていた「しあわせ」は、もうどうやら、ここに来てるんですよね。

歌詞に綴られた、戦後の貧しさの中で祖父母の生きた世の中が追い求めた物質的な満足を意味する「しあわせ」とはひと味ちがうかもしれない。

法蔵菩薩の「幸」は、ぼくを苦しみから解放すること。世間の親だって、子を苦しませたくない、自分が食べれなくてひもじかった同じ苦しい思いをこの子にはさせたくない。そういう心ぶりは通じます。がしかし、あたしらが思いつける程度の苦しみからの解放と、仏さまがなさる苦しみからの解放は、やっぱり根本的にちがう。違うことはわかるけれど、どう違うのかは難しい。その難しいところを名に納め、「ナマンダブ」と聞かせて解放してしまうのが、たくみのわざ。

手に入れる前に向こうから入って来た、この仏さまの「幸」にであってしまうと、いままであたしが考えていた「しあわせ」に対する評価が、すこし変わるかもしれない。

 

日がな春をさがし、藜(あかざ)の杖をついて幾重の雲を追いながら草鞋を踏み破ったけれど、春は見つからなかった。家に帰って、試しに梅の梢(こずえ)をとったら、春は枝のいただきにあって、すでに充分(※筆者意訳)」という、宋の詩人・戴益(たいえき)が詠んだ漢詩を思います。

「しあわせ」はいつもここにある。みうしなうばかりの、あたしのなかに。

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弥生、中志津のユタカ(仮名) の傍にほころぶ梅。まもなく梅雨の季節へ。

 

かたつむり どこで死んでも わが家かな   小林一茶

 

 

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墓苑の営業時間を短縮しています

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八重桜はいつもどおり見事でした。

 

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2020年4月 8日 (水)

令和2年の“はなまつり”お釈迦さまの降誕会

ものごとがパアになった時、「おシャカになった」という。

立ち往生と同じようなニュアンスかと思っていたけれど、少し違かった。

立ち往生は、比叡の荒僧・武蔵坊弁慶が岩手県の南 衣川(現 奥州市)で、頼朝の手勢に討たれ果てる時のすがた。

転じて、渋滞などにハマってにっちもさっちもいかない状態をいうよう。

往生は浄土に生まれることだから、ホントは死ぬことがみな往生と言うわけではないのだけれど(ここだけのはなし)。

後世も知らず「往生したわ~」と軽々しく言ってしまっていたのは、大かた再び苦界へ生まれ戻り、寺の住職でもさせられているのだろう。

翻り、おシャカ。むかし鍛冶屋が鋼をうつにあたって、幾分の火の加減で使い物にならなくなったという。

江戸の町人は「ひ」を「し」と言いたがるから、「火(し)が強かった」「しがつ(4月)よか(8日)った」でお釈迦さまのお誕生日。

「おシャカになった」と言うようになった、と 小さん が云々。

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さて、きょうはお釈迦さまのお誕生会。ウィルスが元気なので、しゅくしゅくとお祝い。

甘茶を生まれたてのお釈迦さまへ雨ふらせる。例年ご接待の飲茶は、感染を防ぐため今回は差し止め。

お釈迦さまが説かれた仏さまの世界観は、お経に綴られている。浄土真宗の要のお経は『無量寿経』。

そこで、お釈迦さまは、ご自身がお生まれになった由縁を次のように説かれている。

 

大乗のもろもろの菩薩は願いをおこして行を修め、功徳も充分。

みな「普賢(慈悲のアイコン)」の徳にしたがい、さまざまな場所におもむいて、巧みな手だてで人々を導き、すべての仏の教えを知り、さとりの世界をきわめ尽し、はかり知れないほどの多くの世界で仏になる姿を示す。(まさにお釈迦さまの一代記をダイジェストで紹介している)

 

(もとい)まず菩薩は兜率(トゥシタ)天に住まって、次に、その宮殿から降りてきて(次回はおよそ56億7千万年後)母の胎内にやどる(釈尊伝では、母・マーヤーが夢でたくさんの牙を持った白い象が飛び込んでくるのを見て懐妊したという)。

 

やがて、右の脇(インド古典で王族のしるし)から生れて(各方面へ)七歩(ずつ)すすみ、

その身は光明に輝いて、ひろくすべての世界を照らし、数限りない仏の国土はさまざまに震動する。(寄席ならいわゆる出オチです)

 

そして王子は手を挙げ、「わたしは、この世においてこの上なく尊いものとなる(吾当於世 為無上尊)」 と自ら宣言。

ブラフマン(梵天)やインドラ(帝釈天)はうやうやしく仕え、神々や人々も崇敬する。

(『荘厳経』や『普曜経』には、「龍がぬくいのとひやいのと合わさった香水を注いだ」とある。香水はアムリタ:甘露。不死の水。甘茶の由来)

 

王子は、文武両道。まさにスター誕生。アイドルそのもの。宮城で多くの欲望に晒される。しかし世間や人々の無常のすがた(生老病死)に触発されて出家。

有名なシッダールタ太子の伝記になぞらう(詳しくは手塚治虫の『ブッダ』を参照のこと)。

 

諸国を遍歴して、巧みな説法で人々を苦しみから救済する。正法をイザ!宣べんいう時には、ニコリと微笑まれる。

そういえば、法然聖人の許を訪ねて参った、経典の道理を理解できた試しのないような市井の愚かな(あたしのような)人々を見て

「往生、必ず、間違いなし!」と、師も微笑まれていたな、と宗祖がお手紙に回顧されていたな。

 

お釈迦さま、ひととおり旅を終えなさると、一旦死ぬすがたを見せる。けれども、しかし、それで終わるわけじゃぁござぁせん。

 

身体の縛りを離れればいよいよ本領の発揮。縦横無尽に出向いて行って、先々で苦しむ人々を救済することができる。

 

教えのカナメをきわめ尽して、その「名」や、教えの言葉(お経)はすべての世界まで至りとどき、その時その場所で人々を巧みに導く。

 

何も恐れぬ智慧をそなえ、「すべては幻!」という道理をわきまえて決して執着せず、さとりの道をさまたげる悪魔の網をひき裂き、あらゆる煩悩をも打ち破る。

 

悲嘆にくれて仏教どころじゃない人も、仏道修行する人も、しない輩も皆つかまえて、あらゆる言葉を駆使して、すべてを導く。

その心は常にさとりの世界にあるから、世間の価値基準には惑わされない。

ひとりぼっちの人のために、自らすすんで親友となり、その人の苦しみを背負い引き受けてまで、導いてく。

 

ひとたびその心に宿ったならば、仏心が絶やされないように養育して護り、ルームシェアをするかの如くしてその人の心に住まい続け、

地獄や餓鬼や畜生といった、おそろしく苦難のあるところへ通じる道をふさぎ、必ずよろこびの世界へと誘う。

 

小さな子供が、親の愛を疑わず求めて止まないように、菩薩の慈悲は我らを求めて止まない。

 

まるで自分の事のようにして、さまざまな人々を見ているのである。

 

抄訳、おわり。

 

「これじゃちとよくわかんねえ」というみどもために

親鸞聖人はその内容を詩歌へと仕立ててくださっている

ので、しまいにこちらを改めてご紹介

 

久遠実成阿弥陀仏  (極楽浄土の阿弥陀さま)

 五濁の凡愚をあはれみて  (苦界の人を救おうと)

 釈迦牟尼仏としめしてぞ  (シャカ族王子と化けて出て)

 迦耶城には応現する  (ブラフマ・ガヤーへやってきた)

 

安楽無量の大菩薩  (極楽浄土の菩薩たち)

 一生補処にいたるなり  (成仏前の最終ターン)

 普賢の徳に帰してこそ  (救い残しを余さぬと)

 穢国にかならず化するなれ  (苦界の我らに会いに来る)

 

安楽浄土にいたるひと  (往生成仏した人は)

 五濁悪世にかへりては  (苦界へ遊びに出で来たる)

 釈迦牟尼仏のごとくにて  (おシャカさまのようにして)

 利益衆生はきはもなし  (菩薩のお務めなさいます)

2020年4月 5日 (日)

4月の例時法座

堀切では毎月第1日曜日に月例法座。

 

宗祖聖人・本願寺歴代、隆照寺開基の月忌という心づもり。

 

ウィルスのまん延をふせぐため、今月は内々に法要を営む。

 

お花もポピーや猫柳をとりあわせたので、今月はお寺へ参れなかったお同行の方々も、動画の画面からどうぞご一緒ください。

 

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